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カントコ4

このカンタータは、ルターの"Christ lag in Todes Banden"全7節をそのまま歌詞としたものです。 全節コラール歌詞というカンタータは数少なく、しかも全ての曲がコラール旋律の変奏となっている、 コラール変奏曲の形をとったカンタータは他に例がないものです。

原作コラールの簡単な解説はカンタータとコラールのページに、 さらに詳しい解説がバッハコラール事典にあります。

第2曲(合唱曲)


(コラール第1節)
1:Christ lag in Todes Banden
クリスト ラーク イン トーデス バンデン
キリストは死の桎梏に囚われの身となった

2:für unsre Sünd gegeben,
フュール ウンズレ ズュント ゲゲーベン
私たちの罪のために御自身を与えてくださって、

3:er ist wieder erstanden
エル イスト ヴィーデル エルシュタンデン
しかし彼は復活し

4:und hat uns bracht das Leben;
ウント ハット ウンス ダス レーベン
そして私たちに命をもたらされた。

5:Des wir sollen fröhlich sein,
デス ヴィール ゾレン フレーリヒ ザイン
そのことに私たちは喜びにあふれ、

6:Gott loben und ihm dankbar sein
ゴット ローベン ウント イーム ダンクバール ザイン
神を讃美し、そして彼に感謝の念を持たずにはいられない、

7:Und singen halleluja,
ウント ズィンゲン ハレルーヤ
そこで私たちはハレルヤと歌うのだ。

8:Halleluja.
ハレルーヤ
ハレルヤ



1:Christ lag in Todes Banden
クリスト ラーク イン トーデス バンデン
キリストは死の桎梏に囚われの身となった

Christ は通常「キリスト者」の意味ですが、ここでは Christus と同じ意味です。 現在では少し古風な言い方となります。

lag は liegen (英語の lay)の過去形。しかし、この場合は「横たわってい る」とか具体的に考える必要はなく、in Banden liegen「囚われの身となる」と いう熟語です。「机の上に本がある」というような時にも liegen を使います。
ただし、"in Ketten und Banden"(束縛されて)という熟語にあるように、 Kette(鎖)Band(桎梏、足かせ)という具体的なイメージは残っているわけです。 Band の複数が Bande で、in の後では Banden となるという文法の規則です。

2:für unsre Sünd gegeben,
フュール ウンズレ ズュント ゲゲーベン
私たちの罪のために御自身を与えてくださって、

"Sünd"は"Sünde"の e を略したものです。

「私たちを罪から救うために、キリストは御自身を私たちに与えられた」という意味です。

これを「渡された」と訳す例が多いようですが、それは、聖書の「人の子は十字架に付けられるために引き渡される」等の箇所からの連想と思われます。 しかし、ルター訳聖書はその意味では geben を使っていません。

マタイによる福音書 / 20章 17節〜19節
イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われ た。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法 学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を 侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活す る。」
マタイによる福音書 / 26章 1節〜2節 (マタイ受難曲の最初の聖書箇所)
イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。 「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架に つけられるために引き渡される。」

一見この詩の状況とは合致していますが、ルター訳聖書では上記の「引き渡される」 を、"überantwortet werden"と訳しており、この意味で"geben"が使われることはありません。 geben が使われるのはつぎのような箇所です。

ヨハネによる福音書 / 3章 16節
神は、その独り子をお与えになったほどに、(dass er seinen eingeborenen Sohn gab,)世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得 るためである。(sondern das ewige Leben haben)。
ガラテヤの信徒への手紙 / 1章 4節
キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわ たしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださっ たのです。(der sich selbst für unsere Sünden gegeben hat)

神は愛によって人類にその独り子を「お与えになった」(gab は geben の過去形)。 あるいは、キリストが自分自身を geben されたわけです。 ガラテア書のこの箇所は、直接ルターの詩の下敷きになっているものでしょう。 そのことを考え、受け身形には訳さず、"sich selbst für unsere Sünden gegeben hat"の、 最初の"sich selbst"と最後の"hat"(またはhatte)が略されたものと解釈しています。 また、ヨハネの方は"gab"と"Leben"が因果関係をなしており、この詩の2行目と4行目の関係を表しています。

キリストが「与えられた」ことは喜びであるのに対して、キリストが十字架に付 けられるために「引き渡された」のは悲しみです。それはもちろん物事の表裏であって、 別々のことではありませんが、ここで表を見せるのか、裏を見せるのか、 詩としても音楽としても、全く意味が違ったものになるはずです。 (クリスマスと受難は表裏をなすわけで、実際クリスマス・オラトリオには受難コラールで有名なメロディが出てきます。 しかし、やはりクリスマスには喜びが、受難には悲しみが表に出るのは当然のことです。)

またこの"gegeben"に対するバッハの作曲を見ると、「ホ短調→ト長調」「ホ短調→ホ長調」と、 いずれも短調から長調への転調が行われています。 それは、4行目の"Leben"に対する扱いも同じです。つまり、 「人間の罪のためにキリストが与えられ、そのことによって生命がもたらされた」というメッセージが表現されています。 少なくともバッハは、この"gegeben"を「死に引き渡された」というマイナスイメージではなく、「人類に与えられた」というプラスイメージで解釈しているわけです。

3:er ist wieder erstanden
エル イスト ヴィーデル エルシュタンデン
しかし彼は復活し

erstehen(復活する)の完了形が ist ... erstanden です。

wieder は「元通りに, 再びまた」の意味にとるのが妥当なようにも思えますが、「(〜したかと思うと)それとは反対に(今度は〜した)」という意味もあります。 後者の意味にとると、1行目で「死(の桎梏)に囚われの身となった」、それに反して今度は復活したという意味になり、行ごとの意味のつながりがはっきりします。 ここではその意味で「しかし」と訳しました。

4:und hat uns bracht das Leben;
ウント ハット ウンス ダス レーベン
そして私たちに命をもたらされた。

bringen(英語の bring)の過去完了が hat ... gebracht ですが、ここでは ge-が抜けています(この詩では ge- が抜けていることが多いです)

結局以上の4行は、キリストの死という出来事(1行目)を起点として、それはキリストが人間の罪のために与えられたからだ(2行目)、 しかしキリストは死に打ち勝ち復活した(3行目)、ここに死は権力を失い私たちに生命がもたらされた(4行目)という起承転結を表していると言えます。 音楽もここで一段落し、短い間奏の後、詩の後段に入っていきます。

5:Des wir sollen fröhlich sein,
デス ヴィール ゾレン フレーリヒ ザイン
そのことに私たちは喜びにあふれ、

さて、この Des はちょっと難問デス。とりあえず、この des は、 「それ」という意味の代名詞 das の「2格」です。(現在は dessen ですが、その古い言い方です)。

もともと froh(喜んでいる)から froehlich (楽しい、喜ばしげな)という単語が派生したのですが、 (2格)+froh で「〜を喜んでいる」という用例があります。 同様に解釈して「そのことに喜びにあふれている」と解釈しておきます。 「そのこと」とは、言うまでもなくキリストが復活し、人に生命 をもたらしたことをさします。

6:Gott loben und ihm dankbar sein
ゴット ローベン ウント イーム ダンクバール ザイン
神を讃美し、そして彼に感謝の念を持たずにはいられない。

そこで次の行は、一見何の問題もなく、loben は「ほめたたえる」、ihm は「彼 に」、dankbar sein は「感謝している」となるのですが、なぜ日本語のよう に、"Gott loben"、"ihm dankbar sein"と動詞が最後に来るのでしょうか?

これは、その前に sollen という助動詞があるからで、 その場合ドイツ語の語順は、「主語+助動詞+……+動詞」という順番になる のです。つまり、6行目は5行目と切り離してはいけません。sollen は、loben にも、sein にもかかっているわけです。

さてまたまた難問は、sollen の意味です。例えば川端訳は「神を讃美し感謝 して、さあ、ハレルヤと歌おう」となっています。孫引きですが、杉山訳は「神を讃め、感謝しまつらん。 しかして歌わん、ヤハの讃美を。」とどちらも「何々しましょう」という、自分の意志の意味に訳しています。

しかし、ドイツ語 sollen の基本的な意味は、「主語が自分以外の意志によって 動かされることを示す」という点にあります。(これは英語の shall も同様で す。)自分の意志で何かをするのは wollen(英語の will)で、その点では全く 逆なのです。

その点川端訳が5行目を「私たちは喜ばずにはおられない」と訳しているのは適切と思うのですが、 そこで意味のつながりを切ってしまったために、6行目以下は wollen の意味に訳さずにはおられなかったのでしょう。

ルターの「信仰のみ」の教義は、「信仰は人のはからいではない」点にあります。 ちょうどアブラハムが一人子イサクを燔祭として捧げようとしたときに、 神は代わりの燔祭の羊を用意されたように、信仰もまた神によって与えられるものであるわけです。 つまり、「喜びにあふれ」「神を讃美し」「彼に感謝の念を持つ」すべてのことが神の計らいであり、 人の意志による行いではない。それをルターは、sollen という一つの単語で表現していると考えるべきでしょう。

7:Und singen halleluja,
ウント ズィンゲン ハレルーヤ
そこで私たちはハレルヤと歌うのだ。

8:Halleluja.
ハレルーヤ
ハレルヤ

ドイツ語ではいくつかのものを並べるとき、A, B, C und D というように、 いくつでもコンマでつないでいって、最後に und でつなぐという形式があります。 この詩の場合 sollen の次に"[frolich sein], [Gott loben] und [ihm dankbar sein]"と並んでいますので、 sollen にかかるのは"ihm dankbar sein"まで。 その次の"Und singen halleluja"は、wir を主語とする別の文であることが分かります。 今度は singen が最後に来ないのはそのためです。

ところで、杉山訳ではこれを「しかして歌わん、ヤハの讃美を。」と訳していますが、 「ヤハの讃美」とはいったい何のことでしょうか?これは、ヘブライ語の語源に基づいて、Hallelu-ja を訳したものです。文語訳聖書の詩編150編に「氣息(いき)あるものは皆ヤハをほめたたふべし」という訳がありますが、 これがヘブライ語の原文ではまさに「ハレルヤ」です。それが詩編全体のしめくくりの言葉なのです。

ところで、Halleluja の歌い方に関して、この曲に一貫しているバッハの音節のとらえ方は、 Hallelu-ja ではなくて、Halle-luja です。しばしば、halle, halleluja と歌ったり、halle - - - luja と歌う箇所が現れ、うっかり間違えそうになります。 つまり、バッハは全くヘブライ語の語源などに頓着していません。 日本の文語訳聖書はバッハとは何の関わりもなく、ここは「ハレルヤと歌わずにはいられない!」そうだ、歌おう「ハレルヤ!」 と、理屈抜き、シンプルであるべきでしょう。

第3曲(ソプラノ、アルト)

第4曲(テノール)

第5曲(SATB)

第6曲(バス)

第7曲(ソプラノ、テノール)

第8曲(4声コラール)