→トップページ
→バッハクライス神戸
→バッハの教会カンタータを聞く

カントコ9

初めにこのカンタータの概要ですが、これは「コラールカンタータ」、つまり Es ist das Heil uns kommen her《われらに救いの来たれるは》というコラールを題材にしたカンタータです。 しかし、コラールの歌詞をそのまま使用しているのは最初の合唱曲と最後のコラールだけで、 第2〜6曲はコラールの内容をパラフレーズした歌詞となっています。 各節が7行で構成されているので、合唱の入りも7回と言うことになります。

なお、このコラールについては「バッハの教会カンタータを聞く」のサイトの方ですでに取り上げていますので、 詳しくはそちらをご覧下さい。
→コラールの歌詞とメロディ

さて今回はちょっと前置きが長くなります。 バッハのテキストは、やはり昔の文章ですから、現代の辞書には載っていない言葉もあり、 現代の文法知識ではなかなか解釈しにくい構文もあります(単に知識が乏しいだけだという説もあります)。 そんな時はどうするのか?対訳を作る場合は、「ここは分かりません」で空白にするわけにも行きません。

そんな時に役立つのが、第一に既成の対訳です。と言っても、 実際に利用できるのはほとんどが英語の対訳ですが、それらを見ると、 理屈は分からなくても、ともかくこういう意味になるらしいということは分かります。

もう一つはもっと生産的な方法で、ルター訳聖書に同様の単語や表現が使われていないかを検索します。 聖書がネット上で電子化されている現代ではかなり簡単で効率の良い方法です。 これによって意味選択の迷いを無くすことができ、従来の誤訳を正すことができる場合もあります。 聖書と同様の表現が出てきた場合、聖書の意味解釈を当てはめることができるからです。

長々と書きましたが、これみんな言い訳のための伏線です──このテキスト、難しいんです(泣)

第1曲(合唱曲)

1:Es ist das Heil uns kommen her
エス イスト ダス ハイル ウンス コメン ヘール
救いが私たちのもとにもたらされた

Es というのは英語の it 。「雨が降る」というのを"It rains." というが、 ドイツ語でも"Es regnet." と言い、it や es は特に意味がない形式主語。 ところがドイツ語の場合、もう少し使う範囲が広くて、たとえば「夏が来る」は、 "Der Sommer kommt."で良いはずが、わざわざ"Es kommt der Sommer." と言ったりする。 これは「改まった口調で一つの現象や真理を紹介する」という言い方。 形式上の主語は es だが、意味上の主語は Sommer なわけだ。 そこでこの文も、意味上の主語は何かというと、das Heil(救い、救済)と言うことになる。

なお、この Heil はあの悪夢の"Heil Hitler!"と同じ語で、「健康、繁栄、幸 福」と言うような意味が中心だが、キリスト教では「救済」の意味で使われる。

そこで、この文を通常の形に戻すと、"Das Heil ist uns kommen her."となり、 そのまま英語に置き換えると、"The salvation is come here to us."(uns は to us 「わたしたちに」)。 これは、"Spring is come."(春が来た)と同じく、 一種の完了形として「救いが私たちのもとにもたらされた」という意味で何の問題もない。 ところがそれは、英語では come の過去分詞が come だからそう言えるだけで、 ドイツ語の場合 kommen の過去分詞は gekommen なので、どうもこの文は落ち着きが悪い。

さらに言えば、her は「こちらに」という意味で(hin は「あちらに」という意味の反対語)、 kommen her は come here だから何の問題もなさそうだが、 今のドイツ語ではこういう場合 herkommen と一語で綴られ、過去分詞はhergekommen となる。 つまり、この文を今普通に書くと、"Das Heil ist uns hergekommen."となるはずだ。 (ist は完了の助動詞で、このように助動詞を使うときは、本動詞は文末に置かれ一語で綴られる。)

kommen her となっているのは、3行目の nimmermehr と韻を踏んでいるからと言えるが、 バッハの時代にはこのように語順を変えたり、過去分詞の ge が省略されたのだろうというのは、 あくまでも想像であって、確証はない。結局ここは知識のないものの悲しさで、 「理屈は分からなくても、ともかくこういう意味になるのだろう」と言うしかない。

2:von Gnad' und lauter Güte;
フォン グナート ウント ラオテル ギューテ
神の恩寵であり全くの慈しみに他ならない(救いが)

まず Gnad' は神の恩寵、慈悲の意味。'はやはり e が略されていて、本来はGnade。 次の Güte はやはり「慈悲、慈しみ、善意」、というような意味。 その前にある lauter は「全くの、ただもう、ひたすら〜」と言うような意味。 英語訳は pure なので、つい「純粋な」と訳したくなるが、pure にも"mere, nothing but"という意味がある。 英語で知ってる単語が出てきたからと言って安心してはいけない。

lauter はもともと「純粋な、混じりけのない」という意味の形容詞。 カントコ197で書いたように「形容詞は後ろの名詞を修飾する場合は、 名詞の性・格・数に応じて -e とか -er とかいろいろな語尾が付く」ので、 本来ここは女性3格の語尾-er がついて lauterer Güte となる。 ところが、「全くの、ただもう、ひたすら〜」と言う意味の場合はその変化がなくなり、 常に lauter の形で使われる。つまり、この場合はその意味で使われていることが分かる。

問題は最初の von の意味。英語訳を見ると、by, from, through などに訳しているものがあり、 その場合は救いが「神の恩寵と全くの慈しみ」によって(から、を通して)「来る」という意味になる。 ところが von には「〜の、〜の特性を持った」というような意味もあり、 その場合は「神の恩寵と全くの慈しみ」は「救い」の性質を述べていることになる。 英語訳も両方の訳し方をしていて、今のところどちらが正しいか分からない。(ここでは後の意味で訳している)。

ところで《われらに救いの来たれるは》という訳は少しおかしい。杉山訳が手元にないので、 同様の高野紀子訳を示すと次のようになる。

《われらに救いの来たれるは 恵みと慈しみのみによる》

これをドイツ語に戻すとこういう感じになるはずである。

Es ist von Gnad' und lauter Güte, dass das Heil uns kommen her.

大まかな意味は違わないが、これだと救いが来る理由を示すことがテーマになり、 「救いが来た」事実の告知という重点からずれている。 確かに最初に書いたような分かりにくさは解決されるが、こちらの都合でドイツ語を変えてしまってはいけない。

3:die Werk' die helfen nimmermehr,
ディ ヴェルク ディ ヘルフェン ニメルメール
決して助けにはならない「行い」というもの、

die Werk' これも最後の e が略されているが、これは「人は行いによって義とされるのではなく、 信仰によって義とされる」という、ルター神学の中心メッセージとしての「行い」。 なお、Werk = Work で、die Werke は複数形。 helfen はこの場合「助けになる、役にたつ」という意味。 nimmermehr は英語のnevermore だが、この場合は never と同じ意味。 die helfen nimmermehr の die は die Werke にかかる関係代名詞で、結局上のような意味になる。
(関係代名詞の場合ディはアクセントを付けて発音する)。

4:sie mögen nicht behüten;
ズィー メーゲン ニヒト ベヒューテン
それらは(私たちの)守りにならない。

sie はこの場合英語の they に当たり、die Werke を示している。 mögen は普通「〜かも知れない」とか「好きだ」というような意味に使うが、 これは可能を表す古い用法。つまり mögen nicht で「〜することができない」。 behüten は「守る、防ぐ」というような意味で、普通は目的語が必要だが、" (Gott) behüte!"「(神が災厄を)防がれる=やなこった!」という目的語を省略した用法もあるので、 ここでも目的語無しで「守りになる」というような意味(と思う)。

5:der Glaub' sieht Jesum Christum an,
デル グラオプ ズィート イェーズム クリストゥム アン
(その一方で)信仰はイエス・キリストを見つめる、

der Glaub' これも最後の e が略されているが、「信仰」。 glauben なら「信じる」。続く sieht は sehen(見る)という動詞の三人称単数形だが、 辞書を引く場合は、最後の an とくっつけて ansehen で引かなければならない。 ansehen は単に見るだけでなく、じーっと見る、注目して見るという意味になる。 こういう動詞を「分離動詞」と言い、辞書の登録上は一体だが普段は別居していると言う、なにやら意味深な動詞。

分離動詞の説明は後にして、次の Jesum Christum は次のような変化をする。
1格(〜は): Jesus Christus
2格(〜の): Jesu Christi
3格(〜に): Jesu Christo
4格(〜を): Jesum Christum
呼びかけ: Jesu Christe
(ただし、いずれも Jesus Christus でも良い)
つまり Jesum Christum だけで「イエス・キリストを」という意味になる。 (これはラテン語の形がそのままドイツ語に入ってきてるんですね。多分。)

さて分離動詞だが、要するに
×"Der Glaube ansieht Jesum Christum."× とは言わず、an だけが最後に来て
"Der Glaube sieht Jesum Christum an." となるような動詞を言う。
文末に変な前置詞や副詞のようなものがぽつんと置かれている場合は、分離動詞 ではないかと疑ってみる。

ところが、ここに助動詞が入ったり、接続詞に導びかれた従属文になったりする と、動詞は文の最後に来て一体化する。たとえば、
"Der Glaube will Jesum Christum ansehen."(信仰はイエス・キリストを見つ めようとする)
"Er sagt, dass der Glaube Jesum Christum ansehen."(彼は、信仰はイエス・ キリストを見つめると言う。)
こういう場合、助動詞以下、接続詞以下は日本語と語順も一緒になってしまうの が面白い。

6:der hat g'nug für uns all getan,
デール ハット グヌーク フュール ウンス アル ゲタン
私たちすべてのために十分に為してくださった(イエス・キリストを)、

最初の der は一見5行目の der と全く同じだが、5行目は der Glaube でひとまとまりで、 der は英語の the と同じだが、今度の der は関係文を導く関係代名詞で、Jesum Christum を修飾する。
(この場合もデールとアクセントを付けて発音する)。

英語の関係代名詞は、that とか which とか、修飾する語の性や数など関係ないが、 ドイツ語の場合は Jesum Christum(男性名詞)なら der 、もし Maria(女性) なら die 、 Wort(中性)なら das 、Werke(複数)なら die と、それぞれに対して使われる形が決まっている。

そこで、der はとりあえずイエスのことだと思って、そのイエスがどうしたかというと、 hat 〜 getan で 「〜した」という完了の意味になる。hat は完了の助動詞で、 「する」という意味の tun という動詞が最後に来て、その過去分詞getan となる。

「ちょっと待って、さっき ist が完了の助動詞と書いてたけど?」

実は、動詞によって hat で完了形を作るものと ist で完了形を作るものがある。 多くの場合は hat だが、kommen は ist と決まっている(ist, hat は主語が三人称単数の場合)。 この使い分けは分かっていても間違いやすい。実は英語の "Spring is come."というのも、 昔はbe動詞の完了形とhave動詞の完了形の使い分けがあったことの名残だそうだ。

元に戻って、〜の部分の g'nug für uns all は、 英語に置き換えると enough for us all、つまり「十分に私たちすべてのために」となる。 g'nug は例によって e が略されていて、本来は genug。 有名なソロカンタータ(82番)"Ich habe genug"の genug である。

7:er ist der Mittler worden.
エル イスト デル ミットレル ヴォルデン
彼は仲介者となられた。

Mittler 「仲介者」というのは、聖書の重要な概念で、 たとえば「テモテへの手紙一」2:5に「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、 人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」。 「ヘブライ人への手紙」9:15に「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。」など。

そこで、ist der Mittler worden で「仲介者となった」という完了形を表すはずだが、 ここでもちょっと問題が。worden は werden(〜になる)の過去分詞には違いないが、 この意味では geworden とするのが現代の規則で、やはり ge が抜けている。 gekommen が kommen に、geworden が worden にと共通の現象だが、 当時はそういう言語習慣があったのか?こういうことでいちいち悩むのが、 知識のない者の悲しさである。

ところで、カンタータの歌詞を見ていると、完了形は頻繁に現れるが、 過去形はほとんど現れない。文法をひととおり勉強するまでは、ドイツ語に過去形はなく、 完了形が過去形を代用するものだと思い込んでいた。そう思うぐらい、カンタータに過去形は見あたらない。

実は現代のドイツ語でも、お互いの過去の経験を述べるような場合は、 過去形よりも完了形が好まれる。過去形は「昔々あるところに…」という物語の世界や、 客観報道のような場合に使われる。バッハの歌詞は常に自分(信者)の思いや、 自分(信者)の思いに引き寄せた事実を述べているので、完了形が多用されるのは当然だったわけだ。

終曲コラール

全14節のうち、第12節が終曲コラールに使われていますが、第13、14節は頌栄唱なので、 コラール詩としては、第12節が最終節になるわけです。 さて、第1節でも「むずかしい」を連発しましたが、やはり最後まで難しい詩です。

1:Ob sich's anließ, als wollt' er nicht,
オプ ズィヒス アンリース アルス ヴォルト エル ニヒト
たとえ彼は望んでなどいないように見えたとしても、

第1曲で、カンタータに過去形はほとんど現れないと書いたが、この anließ は anlassen ( sich anlassen の形で、「〜らしく見える」という意味)の過去形の形。 書いたとたんに間が悪いことだが、「過去形の形」というのはちょっと回りくどい書き方になっている。
と言うのは、次に出てくる wollt は、過去形なら本来 wollte のはずで、例によって e が略されている。 同様にこの anliess も e が略されていると見られる。
回りくどい話をやめると、実はこの anliess(e) や wollt(e) は過去形ではなくて、 「接続法II式の非現実話法」という使い方なのだ。

「接続法」と言ってもなじみがないが、英語で"if I were a bird..."という言い方がある。 過去形なら普通 I was となるはずだが、I were と言うのはなぜか。 これは「事実ではない仮定」を表す「仮定法」という動詞の使い方で、通常とは異なった変化をする。
英語ではごく一部の動詞だけの話だが、ドイツ語ではすべての動詞にそういう使い方が備わっていて、応用の範囲も広い。 これを「接続法」と言う。
ここに出てくる anließ(e) や wollt(e) は「接続法II式」という形式で、過去形とよく似た(または同じ)形で、 「事実ではない仮定」などを表す。 (日本語でも「もし私が鳥だったなら」と、事実に反する仮定は「た」とう過去の助動詞で表す。)

もっとも、最近ではドイツ語でも「接続法II式」はごく一部の動詞でしか使われなくなり、 英語とよく似た状況になっている。なので、初等文法でもあまり詳しくは教えない。 「関口の初等ドイツ語講座」などという古い参考書には詳しく説明されている。

さて前置きが長くなったが、Ob はこの場合英語の even if と同じで「たとえ〜であっても」。 sich's は sich es の略。es は形式主語で、als 以下を示す。
sich anließe は 前述の sich anlassen 「〜のように見える」の接続法II式で、 「〜のように見えたとしても」という事実ではない仮定を表す。

als は英語の as と同じだが、この場合は通常 "als ob" と言う形で使われて、 英語の "as if" と同じ意味を表す。つまり、「〜であるかのように」。 実際にはそうではない仮定を表すので、wollen 「望む、その気がある」の接続法II式、wollte が用いられている。 そこで、通常は"als ob er nicht wollte"「彼にその気などないかのように」「彼は望んでなどいないかのように」 と言うのだが、ob を省いて、動詞を前に持ってくる言い方もできる。
"als wollte er nicht"「彼にその気などないかのように」「彼は望んでなどいないかのように」

そこで、両方を合わせると、 「彼にその気などないかのように見えたとしても」 「彼は望んでなどいないかのように見えたとしても」となる。

「望んでいない」も「見える」も事実ではない仮定なので、接続法II式を使用している。

2:laß dich es nicht erschrecken,
ラス ディッヒ エス ニヒト エルシュレッケン
それを恐れるな。

laß は lassen「〜させる」の命令形。 英語の let 。
dich は 親称2人称 du の4格、つまり「あなたを」。
es は「それ」だが、この場合は1行目で述べたことすべてを受けている。
erschrecken は通常「驚く、驚かせる」だが、この場合は「恐れさせる」。
つまり直訳すると、「それをしてあなたを恐れさせるな」となり、要するに「それを恐れるな」という意味。

これではなかなかまとまった意味が取りにくいが、大体次のようなことになる。

彼(神)にその気(私たちを救う気)が無いように見えたとしても、そんなことを恐れるな

3:denn wo er ist am besten mit,
デン ヴォー エル イスト アム ベステン ミット
というのは彼が最も近く共におられる時は

denn は何度か出てきたが、軽く理由を示す接続詞。 つまり前回の「恐れるな」の理由をあげている。
次の wo は「〜の時は、もし〜ならば」という意味を表す。
am besten は best の副詞的用法。「最も良く(〜する)」。mit は「共に」で、 直訳「最も良く共にいる」は少し変だから「最も近く共にいる」とした。

4:da will er's nicht entdecken;
ダー ヴィル エルス ニヒト エントデッケン
(その時)彼はそれを明かそうとされないのだから。

da は前の文を受けて「その時、そこで」という意味だが、訳さなくても良いことが多い。
will は英語と同じく意志を表す。
次の er's は、また er es の略。
es は前文の内容を受ける。entdecken「打ち明ける、明かす」。
つまり、神が最も近くにおられるときには、人間はそれに気が付かないということ。

5:sein Wort laß dir gewisser sein,
ザイン ヴォルト ラス ディール ゲヴィッセル ザイン
彼の言葉にさらに確信を持ち、

laß は lassen(〜させる)の命令形。
そこで、sein Wort「彼の言葉を」、dir「あなたに(とって)」。
gewisser は gewiss「確かな、確信ある」の比較級。sein「〜である」。
直訳すると「彼の言葉をあなたにとってより確かなものであらしめよ」となり、 結局上のような意味になる。

6:und ob dein Herz spräch lauter Nein,
ウント オプ ダイン ヘルツ シュプレヒェ ラオテル ナイン
そしてもしあなたの心がただただ「否」と言うとしても(「否」としか言えない としても)

ob は英語の even if、「もし〜だとしても」。
dein Herz「あなたの心が」
sprechen「言う、話す」の過去形 sprach は受難曲でおなじみの単語だが、 それをウムラウト化して -e を付けると、前回出てきた接続法IIの形になる。 ここでは、さらにその -e が略されている。現実ではない仮定を表す点は同じ。
lauter は第1曲で出てきたのと同じく、ただひたすら〜であるという意味の修飾語。

ところで、laut「(声が)大きい」(英語の loud)という形容詞があって、 名詞を修飾するときは、-er という語尾が付くこともある。 (たとえば ein lauter Schrei「大きな叫び声が」)
これもやはり形は lauter なので、一瞬見間違えやすい。

英語のサイトでこんな訳を見かけた。 (Bach Vespers at Holy Trinity

and even if your heart speaks loudly in protest

lauter を loud の意味に取っているのだが、これは間違い。
sprechen は他動詞で、Nein は中性名詞だから、もし「大声の否を」という意味なら、lautes Nein と言わなければならない。 英語とドイツ語は近いから、理解するのは楽なような気がするが、やはり外国語は外国語。 きちんと規則を覚えなければ間違うこともあるわけだ。

7:so lass doch dir nicht grauen.
ゾー ラス ドッホ ディール ニヒト グラオエン
それでもなお恐れるな。

so は普通は「それなら」という意味だが、この場合は後ろの doch と一緒になって、 「それでもなお」というような意味になる。

grauen はちょっと変な動詞で、"Es graut mir."で「私は怖い」という意味になる。
第1曲で "Es ist das Heil uns kommen her." というのがあったが、どちらの場合も es は全く形だけの主語。 意味上の主語は mir であり das Heil であるわけだが、"mir" は3格である点が違う。 通常は「私に」の意味の3格が、この場合は意味上の主語となるわけだ。

そこでこの文を考えてみると、もともと
"Es graut dir."
で、あなたは怖い(怖がる)の意味。それを使役文にする lassen の命令形を加えると、
"Laß es dir grauen."「あなたが怖いようにさせよ、あなたを怖がらせよ」となり、es を省略し、否定形にすれば
"Laß dir nicht grauen."となるわけだ。
直訳は「それでもなお、あなたが怖くないようにさせなさい。」ということになり、 結局上のような意味になる。