バッハの教会カンタータ >カンタータ第48番

▼突然妙なことを言い出しますが、音楽というものは自然の時間の流れの中に、あえてそれとは違った秩序を持った時間の流れを作り出すものです。それは、他に例えれば、自然の空間の中にそれとは違った秩序を作り出す、建築と似たものと言えるでしょう。 ところで、時間的な秩序とは、単なる書き割りのようなものではなく、そのように動いて行かざるを得ないという運動の必然性を表すものです。具体的には、音楽を聞いた時に、人間の身体の動きや感情の流れとして実現するものです。(建築の場合でも、一見静的な安定した構造の中に、力の緊張関係が隠されていますが。)

以上は、私の心にふと浮かんだ妄想として聞き流していただくとして、本題に戻ると、私は鈴木盤の演奏に、どのようにしても「動き」を感じることができなかったのです。おそらく、この4つの演奏の中で、「響き」として似通っているのは、鈴木盤とコープマン盤であり、アルノンクール盤がややそれに近く、リリング盤は全く異質なものと言って良いでしょう。 しかし、音楽の動き、さらに言えばそこから引き起こされる身体と心の動きについて言えば、鈴木盤の演奏だけに異質なものを感じました。もっと端的に言えば、鈴木盤には心が動きませんでした。

このことを一番分からせてくれたのは、意外にもアルノンクール盤の演奏でした。この演奏は、冒頭のリトルネロから、強烈に時を「刻んで」ゆく演奏です。「刻む」という点では、鈴木盤も節度を持って丁寧に時を刻んでゆく演奏に違いありません(流れも忘れずに)。 しかし、もう一度アルノンクールを聞くと、その刻みは不均等な、いわば前のめりの刻みで、それが時間を前へ前へと進めてゆく強烈な力を持っているのです。鈴木盤の演奏は、あるべきものがあるべき姿であるべきところにある、予定調和のような世界で、そこには、今生まれたばかりの時間というものが感じられません。端的に言えば、退屈です。

またもや妄想の世界に入ってしまいました。実際のところ、私はこの曲をまず鈴木盤で聞きました。その時に、とても心を動かされたのですから、上に書いたことはおそらく事実ではないでしょう。聞き比べてみた場合に、上のように表現するしかないような微妙な違いを感じたまでのことです。それぞれに、すばらしい音の世界を作り上げていると言うのは、動かない事実です。

▼リリング盤は、音を刻まず、レガートで歌う演奏。それによって作り出される音楽の流れに、のってゆきやすい演奏です。合唱にヴィブラートがかかっているとか、些細なことは気にする必要がありません。部分的なことを言えば、マルガ・ヘフゲンの豊かなアルトが、他のどのカウンターテナーよりも魅力的でした。テノールのバルディンも表面的にならずに歌っています。

▼コープマン盤は、合唱に一日の長があり、オルガンの即興性も楽しめます。カウンターテナーのランダウアーは、今ひとつスムーズさに欠ける歌い方。テノールのプレガルディエンは安心して聞けます。 鈴木盤のカウンターテナー、ロビン・ブレイズは歌唱そのものは安定していますが、声の魅力に欠けます。(これは主観的な好みの問題が大きいですが)。テノールのテュルクは、いつものように整った、かつニュアンスのある歌唱で、プレガルディエンにも劣りません。最後にアルノンクール盤は、スムーズさ、スマートさには欠けますが、力のこもった名演と思います。 エスウッドはカウンターテナーの演奏では最も惹かれました、テノールのエクィルツも独特の緊張した声に魅力のある、力のある歌唱でした。リリング盤の温かさ、アルノンクール盤の力ときびしさ、コープマン盤の優しさ、いずれも心に残るものでした。しかし、きっと鈴木盤が一番心に残るという方もいらっしゃるはずです。

私がもう一つ感じているのは、自分の耳というものが、その時その時で、実に音楽の一部分しかとらえられていないという事実だからです。

(2003年9月28日)


ここまでで、一応終わりのつもりだったのですが、どうもこのようなややこしいことを書いているのは、非常に簡単なことを聞き逃しているためではないかと、心に引っかかるものがありました。 今日ふと思い出したのは、昔NHKで、ゲルハルト・オピッツがベートーヴェンのピアノ曲をレッスンするという番組を見た時のことです。レッスンを受けていたイタリア人の青年は、「熱情」の第2楽章をけっこううまく弾いているのですが、なぜか動きのない音楽で違和感があるのです。 そこで気がついたのは、2拍子で弾くべきところを4拍子で弾いているということで、まさにその点をオピッツから注意されていました。

そこで、同様のことがありはしないかと思って、もう一度聞き直してみました。気がついてみると実に簡単なことで、この第1曲をリリング、アルノンクール、コープマンは6/4拍子ととらえて演奏しているのに対し、鈴木盤では楽譜通り正直に3/4拍子で演奏しているのです。どちらが正当であるかという専門的な議論は私には不可能ですが、音楽が全く違ったものに聞こえるのは当然のことです。 そして私には、6拍子の演奏の方が、はるかに強く心を揺さぶるものに聞こえたのです。

(2003年9月30日)

↑ページの先頭 →履歴へ →教会カンタータ表紙へ

2003-09-30更新
©2003 by 葛の葉