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カンタータ第194番《こよなく待ちこがれし喜びの祝い》

バッハの教会カンタータ(56) BWV194

カンタータ第194番《こよなく待ちこがれし喜びの祝い》
Höchsterwunschtes Freudenfest
1723,11/ 2 献堂式、三位一体節

このカンタータには、バッハ自身によって「シュテルムタールのオルガン落成記念」という副題が付けられています。 このオルガンは、有名な楽器製作者ジルバーマンの弟子でバッハの友人でもあるヒルデブラントが初めて製作したオルガンです。 ヒルデブラントはバッハが最も好んだオルガン製作者として、最近注目されているようですが、このカンタータの中では特にオルガンが活躍しないだけに、 この標題にバッハの好意が現れているような気がします。(このシュテルムタールのオルガンは現存し、次のサイトで見ることができます→ Störmthal, Dorfkirche

この初演は、オルガンの新調だけでなく、シュテルムタールの教会堂の落成そのものを記念して行われたもので、歌詞もそれにふさわしいものになっています。 ところが、この音楽はもともとケーテン時代に作曲された世俗カンタータ(BWV194a, 一部楽器のパート譜のみ現存。)を改作したものとされています。 原曲はケーテン宮廷での誕生日祝賀用ではないかと言われていますが、随所に世俗カンタータらしい明るさと軽やかさが現れています。 カンタータは2部に分かれ、それぞれ6曲からなるものですが、全体に明るく軽やかな雰囲気が支配し、それほど長大さを感じさせません。

なお、これを聞く方は「明るく軽やかな」と気楽なものですが、歌う方はなかなか大変な曲です。とにかく音域が高く、ソプラノ(それも合唱!)が高いハ音まで、バスもト音まで出さなければなりません。 通常の古楽ピッチ(A=415)でもなかなか大変です。なお、鈴木盤では、元のケーテン宮廷のピッチから考察して、通常より全音低いピッチ(A=392)を採用、コープマン盤も同じピッチを採用しています。 アルノンクールとレーシンクは通常の古楽ピッチでやっていますが、レーシンクの方はバス歌手が音を上げたものか、テノールが代わりに歌っています。 そして、リリング盤では現代ピッチでのガチンコ勝負。聞く方としてはそういう楽しみもあります。

(なお上のデータで、「献堂式、三位一体節」となっているのは、その後翌年の6月4日他の三位一体節で再演されたことによります。)

第1曲合唱曲は付点リズムのフランス序曲で始まり、中間部では合唱フーガ、再び管と弦が役割を入れ替えて付点リズムに戻り、それに合唱のテーマが結合されて終わります。 大体フランス序曲と言えば王の入場を表すと言うことで(この場合は新しい会堂に神が入場されるイメージ?)、荘重なおもむきがするものです。 ところが、コープマンの演奏などを聞くと、まるでこれからピクニックにでも出かけるのかという、楽しい行進曲風で、それがこの曲には似合っているような気がしてきます。

中間部の合唱は、神の恵みの下に新しい会堂の建設を祝うことの喜びが歌われます。ところで、この合唱では管弦楽部が合唱のメロディーをそのままなぞる部分が非常に多く、むしろ本来管弦楽曲だったものに合唱を加えたのではないかと考える人もいます(Oxford Composer Companions J.S.Bach)。 実際、パロットが管弦楽部のみを"Overture BWV 194"として録音したものがあります。確かに合唱部分の両端はそういう感じですが、中間部はそうでもありません。パロットの演奏を聞いても、その部分は響きが薄く感じました。

第2曲はバスのレシタティーヴォ。新しい会堂が神に喜ばれるものとなり、神の恵みが現される場所となることを祈ります。この最後に「喜びの光」という単語が現れますが、このあたりから始まって「光」「火」「火花」と言うような単語が歌詞によく現れます。 これに第3曲バスのアリアが続き、「神の輝きに満たされたものは決して夜の闇に覆われることがない」と、ますます明るい歌を歌います。 この8/12拍子のパストラル風舞曲も、聞く方にすれば屈託のない、春を思わせるような曲ですが、随所に難易度の高そうなコロラトゥーラと高いト音が現れ、歌う方は大変です。

4曲目ソプラノのレシタティーヴォでは、この世の虚栄を取り去り、この場所を神の恵みにふさわしい場所としなければならないことが語られます。 そして、続く5曲目ソプラノアリアでは、預言者イザヤの口に天使が燃える炭火を押しつけ、彼の口(言葉)を聖別したという故事が歌われます。 と言えば、なにやら難しいのですが、曲そのものはさらに楽しげなガヴォットそのものです。

第1部最後のコラールでは、簡素な4声コラールに、全ての楽器が重ねられるという形で、コラールの2つの節が歌われます。このコラールでも、「私の内に火を燃やし」「私に火花を吹き込み」と、火に関する形象がよく登場します。とにかく明るい曲なのです

▼第2部は第6曲テノールのレシタティーヴォから始まり、やや内省的に、しかし華やかな技巧をもって、三位一体の神への賛美とこの世の虚栄を去るべきことが語られ、第7曲テノールのアリアに続きます。 このアリアは、テノールと通奏低音のデュエットですが、曲の性格としてはジーグの楽章となっています。

▼さて、続く第8曲、ソプラノとバスのデュエットによるレシタティーヴォは、ドラマ的にはこのカンタータのクライマックスを形作ります。 よくあるパターンはソプラノが悩める魂、バスがイエスと言うものですが、ここでは逆にバスが「不安」を、ソプラノが「信仰」を語ります。「人の弱さ」「世の嘲り」と次々に思い浮かぶ不安が、「信仰」と「教会」の力によってうち消され、やがて確信のデュエットに至ります。 しかし、その音楽はどのように聞いても「農民カンタータ」を思わせるような男女の気楽な語らいで、深刻さを感じさせるものではありません。
これは、世俗カンタータを転用した結果であるとも言えますが、むしろバッハにとっても当時の会衆にとっても、教会と世俗というものは截然と区別されるものではなく、世俗の喜びの中に神の恵みを感じ、逆に敬虔な祈りの中にこの世的な喜びを感じるというものだったのではないでしょうか。

第9曲同じデュエットによるアリアは2本のオーボエがのどかに響くメヌエット。平行3度と6度が多用され、満ち足りた感謝が歌われます。続くバスのレシタティーヴォでは、この会堂と会衆一人一人に神の恵みが宿ることを祈り、第1部同様コラールが2節歌われて終わります。

このカンタータは、原曲の世俗カンタータの性格を色濃く残しながら、かえってそれが当時の信仰のあり方をよく示しているような作品ではないかと思います。 なお、序曲──パストラル──ガヴォット──ジーグ──メヌエットという、管弦楽組曲を声楽化したものという聞き方もでき、その点でも興味深いものです。

(2004年3月15日)

さて演奏ですが、前回の89番と大体同じような顔ぶれで、レオンハルトとアルノンクールが入れ替わっている程度です。前述のようにパロットは冒頭の合唱曲を管弦楽のみで演奏しています。

	Rilling		1977	Hänssler
	Harnoncourt	1989	TELDEC
	Koopman		1998	ERATO
	Leusink		2000	Brilliant
	Suzuki		2000	BIS
	Parrot		1990頃	Virgin              
	

冒頭のテンポですが、コープマン(パロットも)はリリングのちょうど倍速です。合唱の部分は演奏によってそれほどの違いがないのですが、ちょっと極端ですね。 その他はその中間ぐらいのテンポで、鈴木盤あたりが一番しっくり来ます。この合唱の中間部分を導入するバス声部をコープマン盤ではソロに歌わせています。

続くバスのレシタティーヴォとアリアですが、やはりレーシンク盤がテノールで代用してるいるのはいささかがっかりです。また、レシタティーヴォの通奏低音に鈴木盤やリリング盤ではチェンバロを用いており、演奏そのものは決して悪くありませんが、カンタータの標題から言ってもオルガンが使用されるのが自然と思いました。

テノールのアリアは、鈴木盤やコープマン盤では楽譜通りに付点リズムが強調されています。これはリリング盤やアルノンクール盤のように12/8拍子として演奏した方が舞曲らしくて良いようです。

全体としては鈴木盤がぴしりときまった文句の付けようのないできでした。特にバリトンのクプファーは素晴らしいと思いました。リリング盤はテンポやリズムの取り方に全く違う点が多いですが、それなりに説得力がありました。もちろんコープマン盤も例によって明るくのびのびした演奏ですが、鈴木盤には一歩を譲ります。 アルノンクール盤も悪くありませんが、ボーイソプラノがかなり苦しげでした。

(2004年3月16日)

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2003-03-16更新
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