カンタータ第165番《おお 聖なる霊と水の洗礼よ》


バッハの教会カンタータ(12) BWV165 (ワイマール時代7)

カンタータ第165番《おお 聖なる霊と水の洗礼よ》BWV165
O heilges Geist- und Wasserbad
1715, 6/16? 三位一体節

カンタータ第165番《おお 聖なる霊と水の洗礼よ》は、前回のBWV172の約1年後に書 かれた作品です。ただ、教会暦 で言うと、前回の「聖霊降臨祭」に続く「三位一体主日」用ということで、テーマ的 にはつながりがあるようです。この辺になると、キリスト教の教義の難しい問題に なって、私にはよく分かりません。ともかく、「父」(ヤハウェの神?) 「子」(イエス・キリスト)「聖霊」(こりゃ何じゃ?)の三つが別々でありなが ら、一つであるという、ありがたい教えであるそうな。

で、この曲は「洗礼」をテーマにしているのですが、洗礼と聖霊は密接な関係がある ようで、(語呂合わせではありませんよ。念のため。)その点、前回のカンタータと テーマ上の結びつきがあるようです。全体としては、古い罪深い自分が死んで、新し い自分が生まれるという、苦しみと喜びを描いている作品です。

▼第1曲のソプラノアリアは、弦楽三部とファゴットによるフーガの上に乗っかって いるのです。とにかく、いろいろな工夫をする人です。レシタティーヴォを経て、第 3曲、チェロとオルガンの上に乗ったアリア(アルト)は、何度か聞いたような曲。 こんな風に、チェロやファゴットがゆっくりと分散和音を演奏する、静かな曲が最近 聞いた曲の中にしばしば現れています。

次の、バスのレシタティーヴォが、内容的には重要そうです。罪の許しを請う嘆き節 に、ヴァイオリンが切なく答えるところが、なかなかのものです。ここを過ぎるとも う心配はないという感じで、第5曲は軽やかなテノールのアリア。最後に、もう一度 聖霊の導きを讃えるコラールで終わります。

うーん、確かにバッハの工夫と才能はよく分かるのですが、全体としての印象は ちょっと軽いかな。前回の172番の方が、けたたましいけれど内容は濃かったようで す。

▼演奏ですが、前回のBWV172同様、レオンハルト、コープマン、鈴木盤の3種を持っ ています。つまり全集盤のみというわけです。これらの優劣については、特筆すべき ことはありません。どれも、まともで立派な演奏です。もっとも、レオンハルト盤の ソプラノは少年なので、好き嫌いが分かれるでしょう。

鈴木盤の歌手について、特にソプラノ(Suzuki Midori etc.)、テノール(Sakurada Makoto)について感じるのは、非常にナチュラルな、ということです。Suzuki Midori は、海外のニュースグループで、「少年のような澄んだ歌声、しかし少年のように不 安定ではない」と評されていました。Sakuradaは「少年のような」とは言い難いで しょうけれど、ともかく清潔さ純粋さを感じさせる点で同様です。しかし、それが全 面的に良いことなのか?

昔、「おれたちゃ天使じゃない」という映画がありましたが、バッハの音楽もけっこ う人間くさいものなのであって、いくら神を讃えようが、罪に苦しもうが、そのつい でに今晩飲むワインを考えているような面があるわけで、あまり理想化するのはいか がなものか。コープマンの演奏にはずいぶん批判もあるようですが、現在の私には、 最も人間バッハの息づかいを感じさせてくれる演奏のように思え、愛聴しておりま す。

(2000年5月14日執筆)


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