カンタータ第161番《来たれ、汝甘き死の時よ》


バッハの教会カンタータ(16) BWV161 (ワイマール時代11)

カンタータ第161番《来たれ、汝甘き死の時よ》BWV161
Komm, du suse Todesstunde
1716, 9/27? 三位一体節後第16日曜日

解説によると、この作品は元々1715年に作曲されたのですが、前回書いたように、エ ルンスト公子の服喪期間、カンタータの演奏が休止されたことから、初演は1年のば されたようです。全くの想像ですが、この作品を聞くと、若くして亡くなったエルン スト公子の魂が天国に迎えられる情景を思い浮かべてしまいます。

▼まず、2本のレコーダーの合奏で始まるアルトのアリア。この道具立ては、カン タータ第106番《神の時こそ いと良き時》と同じ。すでに天上の雰囲気が漂います が、そこはバッハ。2本のリコーダーをバックにアルトが死への憧れを歌う中、さら にひなびた音色のオルガンが、有名な「血潮したたる、主のみかしら」("O Haupt voll Blut und Wunden")のメロディーで割ってはいる。この曲は、マタイ受難曲で、 何度もでてくるコラールの主題です。これによって、「甘き死を夢見る」センチメン タリズムとは無縁の世界であることが示されます。

このオルガンのコラール主題は、「純粋な」音の美しさの観点からは、むしろ邪魔で あると言っても良いものです。少なくとも、これが入る方が音楽が美しくなるとは言 えない。しかし、意味の分かっている聴衆にとっては、これによってキリストの受難 というイメージが強烈に伝わってきます。キリストの受難と復活によってこそ、死が 暗き定めではなくなり、主の元に召される喜ばしいできごとに変化するというメッ セージを伝えています。バッハの音楽の本質を、数学的とも言える純粋な抽象性に見 る見解は、私自身もそのように考えていた時期がありましたが、それではバッハの音 楽の豊かさを見失う結果になると思います。

▼バッハのカンタータですばらしい作品は、(初期の作品を別にして)とにかくレシ タティーヴォがすごいのですね。2曲目テノールのレシタティーヴォ。この世の喜び が、実はいとわしいものであり、死こそが望ましいものであることを述べた後、いま わの際に心の底から絞り出される言葉、「私の望みは早くキリストとともにあること /私の望みはこの世を去ること」という2行の詩に、実に心にしみる慰めに満ちた チェロのオブリガートがつきます。この5小節だけでもこの曲を聞く価値があると 言って良い。

▼もちろん、実際にはさらにすばらしい曲が続きます。第3曲、テノールのアリア。 望みは確信に変わり、死への恐れは消え去り、キリストと共にいる喜びが狂おしいば かりに歌われます。弦楽合奏が非常に印象的。

第4曲、アルトのレシタティーヴォ。ここで再びレコーダーが戻ってきて、魂はこの 世に別れを告げ、すべてをイエスにゆだねます。さらに、死後の復活の情景までが活 写され、死は喜びの始まりとなります。ここで、レコーダーと弦のピチカートが弔い の鐘を打ち鳴らし、魂は天に昇っていくのです。

そうなると、5曲目の合唱は、魂が天に引き上げられていく情景そのものですね。シ ンプルだがしみじみとした喜びに満ちた3拍子の合唱曲を、2本のレコーダーが彩っ ていきます。それはまるで、金の粉があたりに光をまき散らすようです。

最後に、もう一度第1曲にでてきたコラールが歌われ、キリストの受難と復活の意味 が再確認されます。レコーダーは鳴り続け、喜ばしい気分が最後まで持続します。 ▼私は信仰を持っているわけではありませんし、最近オウムとかいろいろあって、宗 教のイメージが悪くなっている面もあるのですが、やはりこういう作品を生みだす源 泉となったキリスト教というのはすごいもんだなと思います。本日未明、ライプチヒ の聖トーマス教会で、ロ短調ミサ曲演奏があり、BSで実況中継されていましたが、 ああいうのを見ると、つくづく文化の厚みを感じさせます。

もちろん、日本にも貴重な遺産が数多く残されているのですが、それは点として残さ れるだけで、周囲の環境は全然そぐわないものになってしまうことが多い。有名な宇 治の平等院を池の反対側から見ると、バックに高層マンションがそびえていたりする のです。JR奈良駅の取り壊しも決まってしまったし、結局四角いコンクリートばか りになって、後世に何が残るというのでしょうか。話がちょっとそれてしまいまし た。

▼このようなすばらしい曲ですが、演奏は全集盤のみ。アルノンクール、コープマ ン、鈴木雅明、それに最近粗製濫造気味のLeusinkによるBrilliant Classics盤があ ります。この曲に関しては、コープマンはさっぱり。鈴木盤は非常に良い演奏。意外 やLeusink盤もなかなか聞かせる。テノールは全然たこですが、アルトが非常に sensitiveな歌唱を聞かせます。このBuwaldaというカウンターテナーには今後注目し たいと思います。

しかし、なんと言っても、アルノンクールの演奏の前ではどれもかすみがち。テノー ルのエクィルツ、アルトのエスウッドともに完璧以上の歌唱で、アルノンクールのア クセントの強さも、この場合、本質からはずれたものではなく、むしろそれをより強 く表現していると思います。ともかく、この1週間ほど、この曲、この演奏にはま りっぱなしでした。何しろ、聞けば聞くほどすばらしい曲です。

▼と言うわけで、バッハ没後250年はカンタータ161番を聞きながら過ごしたとい うわけです。ついでに、バッハの命日の前日に、とうとうバッハのCDが1000枚を超 してしまいました。さすがに聞く方がなかなか追いつかない状態です。

(2000年7月29日執筆)


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