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カンタータ第154番
《いと尊きわがイエスは見失われぬ 》

バッハの教会カンタータ(62) BWV154

カンタータ第154番《いと尊きわがイエスは見失われぬ 》
Mein liebster Jesus ist verloren
1724, 1/ 9 顕現節後第1日曜日

1723年クリスマスシーズン以後の過密スケジュールを締めくくる作品です。 1週間前に演奏された153番と同様、ソプラノは休憩、合唱は4声コラールのみと簡素な構成をとっていますが、 音楽の内容まで節約されているわけではありません。 153番と同じく、テノールにとりわけ劇的なアリアが割り当てられています。

この日朗読された聖書は、ルカによる福音書2章41節から52節まで。 その全文を引用してみます。

2:41 彼の両親は,過ぎ越しの祭りの時には毎年エルサレムに行った。 2:42 彼が十二歳の時,彼らは祭りの習慣に従ってエルサレムに上って行ったが, 2:43 祭りの日々を満たして帰る時,少年イエスはエルサレムに残っていた。ヨセフとその妻はそれを知らず, 2:44 彼が道連れの中にいるものと思い,一日分の道のりを行ってから,親族や知人たちの中で彼を探した。 2:45 彼が見つからなかったので,彼を探しながらエルサレムに戻った。 2:46 三日後に神殿の中で彼を見つけた。彼は教師たちの真ん中に座り,彼らの話すことを聞いたり,彼らに質問したりしていた。 2:47 彼の話すことを聞いた人々はみな,その理解力と答えとに驚いていた。 2:48 両親は彼を見てびっくりした。その母は彼に言った,「息子よ,なぜわたしたちにこんなことをしたのですか。見なさい,あなたのお父さんとわたしは心配しながらあなたを探していたのです」。

2:49 彼は彼らに言った,「なぜわたしを探したのですか。わたしが自分の父の家にいるはずだ,ということをご存じなかったのですか」。 2:50 彼らは,彼が自分たちに語った言葉を理解できなかった。 2:51 それから彼は彼らと共に下って行き,ナザレに来た。彼は彼らに服していたが,彼の母はこれらのすべての言葉を自分の心にとどめた。 2:52 そしてイエスは,知恵と背丈においても,また神と人からの好意においても,増し加わっていった。 (「電網聖書」public domain)

イエスが見失われ、三日後に見いだされたと書かれているのは、十字架と復活を連想させますが、 ここではイエスを見失った信者の絶望と不安、イエスを再び見いだした喜びがテーマとなっています。 人はその罪によってイエスを見る目を覆い隠されてしまうのですが、イエスは自ら人間にその姿を示し、 人の罪をあがなうことによって、再び人がイエスを見ることを可能にしてくださるのです。

このカンタータにおいては、第5曲のアリオーソでイエスが人に語りかけ (上の2:49をそのまま歌詞としている)、これを転換点として再び人が喜びを取り戻すことになります。 では、楽章ごとにカンタータを聞いていくことにしましょう。

▼第1曲アリア(T)ではイエスを見失い、悲嘆にうちくれて、千々に乱れる心で、気も狂わんばかりに、 イエスを探し求める姿が見事に形象化されています。 上に引用したルカによる福音書2:48「心配しながらあなたを探していたのです」は "mit Schmerzen" (Luther 1545), "sorrowing "(King James Version), "anxiously" (New International Version), "frantic" (New Living Translation) などいくつかのニュアンスで訳されています。 このアリアの演奏を聞くと、"mit Schmerzen" または "sorrowing" (アルノンクール、鈴木)、 "anxiously" (コープマン)、"frantic" (リリング)。 これらはちょっとした印象でしかありませんが、いずれの演奏も説得力のあるものでした。 (レーシンク盤だけは「歌えば良いんでしょ」と太平極楽でしたが)

音楽は、"verloren" (失われた)、" Verzweiflung bringt" (絶望をもたらす)の2カ所でしばし立ち止まり、 ここか、いやあちらかと迷い尋ねる姿が描写されます。 3行目の「我が魂を刺しつらぬく剣よ」という箇所はあっさりと歌われ、 4行目の「私の耳にとどろく雷の言葉」に対しては力を込めて雷鳴の描写が行われています。 (最初に出てくる、「運命の動機」とその後の16分音符の連続。)
なお、この詩の形から言えば、1行目だけが繰り返されて終わるのが通常の姿と思えますが、 ここでバッハは1行目に4行目を挟み込んで繰り返し、「運命の動機」をさらに2回登場させています。(よほどこの雷鳴の描写が気に入ったのでしょうか)。

第1曲36−39小節(旧バッハ全集)

ところで、ここで「雷鳴の描写」云々と言うのは、あくまでも歌詞にそれが示されているので、 そのように聞くのが自然だという意味です。 歌詞に示されている、あるいはその種の音型を用いることが習慣となっているなどの、 音楽外の知識や約束事がないかぎり、特定の音型の具体的な意味など分かりようがありませんし、 また分かったところで音楽を聞く上で何の足しにもなりません。

なお、シュヴァイツァーはこのアリアのリズムが、ヨハネ受難曲のテノールアリア"Ach mein Sinn" を思い起こさせると書いています。 作曲の時期もあまり離れておらず、バッハの中で種々のアイデアが出番を待っていたことは想像に難くありません。 (余談ですが、カンタータ27番のバスアリア"Gute Nacht, du Weltgetummel!"は、ヨハネ受難曲の当該のアリアと同じメロディーで始まります。)

▼テノールはそのまま第2曲レシタティーヴォ(T)に続きます。 ここでは、イエスを見失い、かつて自分が熱烈に選び取った道をも見失ってしまう、人間の弱さ危うさが述べられます。
これに続く第3曲4声コラールは、「主よ人の望みの喜びよ」で有名な讃美歌の第2節が歌われています。

第4曲アリア(A)は通常の通奏低音を欠き、ヴァイオリンとヴィオラに2本のオーボエ・ダモーレが加わるという独特の構成です。(版によりチェンバロが加わる)。 これに12分の8拍子のシチリアーノのリズムがあいまって牧歌的な雰囲気を醸し出しています。 歌詞の内容は、自分の罪が黒雲のように膨らんでイエスの姿を隠すことがないようにという祈りなのですが、 「雲」のイメージが優先して、地上から離れたイメージ、つまり通常の通奏低音を欠くという音楽作りになっているようです。 今までにこのサイトで取り上げたカンタータの中では、105番第3曲のソプラノアリアがこの形を取っており、 また最も成功した例だと思います。 (音楽も聴くことができます。→「古いカンタータ録音を聴く」のページ

第5曲アリオーソ(B)は上述のように、このカンタータの意味上の中心となる曲で、 受難曲や多くのカンタータで通例となっているように、バスがイエスの言葉を語ります。 「わたしが自分の父の家にいるはずだ,ということをご存じなかったのですか」。
音楽的には、この聖句そのままの歌詞の執拗な繰り返しが、さらにバスと通奏低音のカノンによってその執拗さを補強されるという形になっています。 音楽の技法は実用的な目的にも十分に役立つものなのですね。(もちろん目的は聖句の強調です)。

そこで、続く第6曲レシタティーヴォ(T)こそ、ルター派福音教会の教義そのもの(なのでしょう)。 教えは言葉に勝り、言葉は音楽に勝るのですから、まさにこの部分こそがこのカンタータの「本来の目的」と言えるのかも知れません。
特に歌詞の最後の6行ほどを見ると、まず上の聖句にこと寄せて、「父の家」すなわち教会に属することの意義、 そこにおいてこそイエスはその言葉によってその存在が明らかにされ、聖餐においてその存在は常に新たなものとなり、 信者はその「血と肉」を味わい、ここに真の悔い改めと贖罪が成り立つ。

現代の非キリスト教徒にとってはそれがどうしたという話かも知れませんが、説教でさえ一種の楽しみとして聞いていた人々にとって、 美しいテノールで歌われるレシタティーヴォが心にしみないはずがありません。

▼しかし、もちろん言葉による喜びが音楽の喜びとして表現されなければ音楽家の存在意義がありません。 続く第7曲アリアはアルトとテノールのデュエットで、世俗カンタータと見間違うほどの喜ばしい感情を歌い上げます。 これはまた、当日の福音書に即して言えば、イエスを見いだしたマリアとヨセフの喜びの二重唱という具体的な情景をも示しているのでしょう。 音楽は4分の4拍子からさらにテンポを高めカノン風の8分の3拍子となり、決してイエスを離れることがないという喜びの誓いを繰り返します。

この2年後の顕現節後第1日曜日のために作られたカンタータ32番「いと尊きイエス、わが憧れよ」は、同じ聖句を扱い、 より表現の凝縮された名作ですが、そこでもソプラノとバスによる二重唱が歌われ、このアリアに現れる旋律が使われています。

BWV154の譜例
 BWV154の譜例
BWV32の譜例
 BWV32の譜例

最後の4声コラールは「わがイエスをば、われは放さず」。これはそのまま、次の年の同じ聖日のために作られたカンタータ124番の標題ともなっています。

▼録音はリリング、アルノンクール、コープマン、鈴木。テノールはそれぞれ、バルディン、エクィルツ、プレガルディエン、テュルク。 それぞれニュアンスは違いますが、いずれも十全な演奏です。
第4曲の「バセットヒェン」については、リリングだけがチェンバロなしで演奏をしており、やはり独特の演奏効果を示しています。 レーシンクの録音もありますが、この作品においてはレベルが少しかけ離れていました。

	Rilling  	1978  Hanssler
	Harnoncourt 	1985  TELDEC
	Koopman  	1998  ERATO
	Suzuki  	2001  BIS

(2005年8月17日)

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2004-08-17更新
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