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カンタータ第153番
《見たまえ、御神、いかにわが敵ども 》

バッハの教会カンタータ(61) BWV153

カンタータ第153番《見たまえ、御神、いかにわが敵ども 》
Schau, lieber Gott, wie meine Feind
1724, 1/ 2 新年後第1日曜日

1723年から1724年にかけてのクリスマスシーズン5曲目のカンタータです。(降誕節第1日はワイマール時代の旧作「キリストの徒よ、この日を彫り刻め」BWV63が演奏されました。ただし、同日にマニフィカト変ホ長調BWV243aも演奏されています。) 合唱は4声コラールのみ、管楽器は加わらず弦三部と通奏低音のみ、ソプラノもお休みという簡素な構成は、団員のオーバーワークを考慮したものだということが、どの解説にも書いてあります。 しかし、構成が簡素だからと言って、それだけ印象の薄い作品というわけではありません。

40番、64番と同じく、やはり3曲が4声コラールという構成です。 実際のところ、9曲のうち第5曲まではあまりに地味なので、いったいどうなることかと心配になるほどですが、そのあとにちゃんと山場が用意されているのです。

▼まず第1曲からコラールで始まります。この歌詞は、自分が戦うべき敵("Teufel, Fleisch und Welt"つまり「悪魔、肉体、この世」)がいかに強力か、神の恩寵による支えがなければ、たちまち自分は不幸の底に沈められてしまうというような内容です。 この恐れの感情と神の助けを求める祈りが、手を変え品を変えて第5曲まで継続していくのです。

第2曲アルトのレシタティーヴォはごく短く簡素なものですが、ライオンやドラゴンに喩えて、危機の切迫していることを神に訴えます。

▼すると第3曲バスのアリア(またはアリオーソ)では、早くも神御自身が登場し、イザヤ書41章10節を引いて信者を力づけるのです。

恐れるな、私はあなたと共にいる。
屈するな、私はあなたの神である。
私はあなたを強め、またあなたを助ける、
私の正義の右手をもって。

バッハのカンタータには、わりと気軽に神(イエス)が登場し、信者とデュエットを展開したりしますが、その声はバスに決まっているようです。

ところが、神が登場したからには悩み苦しみはたちどころに去るというわけではなく、第4曲テノールのレシタティーヴォは逆に苦悩の度合いを深めて行きます。
最初の4小節は、神の語りかけと慰めに感謝を捧げる部分で、音楽的にも平穏・平凡です。ところが一転、日に日に増していく苦しみを訴えるところから、減6増4などの不協和音が頻出し、音楽的な描写が深まっていきます。 特に"Bogen"(弓)の音画、(「敵の弓が私に向かって引き絞られ、その矢が私の破滅に的を定める」)、"sterben"(死ぬ)の半音階的進行(「彼らの手によって私は死ぬだろう」)、レシタティーヴォとアリオーソの繰り返しなどが印象的です。

そこで、第5曲コラールは、マタイ受難曲やクリスマスオラトリオでおなじみのものです。これは、本来その悩みに対する確固とした回答を与える音楽であるはずですが、この和声進行は最後まで落ち着く場所がありません。 つまり、神の勝利は間違いないのだが、それは神の究極の目的によるもので、その最後の時まで人間は待たなければならない。その時が至るまで人間の苦悩は絶えることがないのです。

▼ここまでのことを前提にして、音楽は第6曲テノールのアリア、嵐の音楽に突入します。(嵐の音楽は、この1月あまり前に作られたカンタータ70番や90番にも登場し、いわばバッハの「マイブーム」でしょうか?) 音楽は、説明の必要もなく嵐そのものです。駆け抜ける32分音符のスケール、荒れ狂う付点音符、跳躍する音程。沸騰する("wallt")波は全5部のユニゾンで、打ちかかる不幸の炎("Flammen")は通奏低音のみを伴ったメリスマで歌われ、すかさず弦が呼応します。
途中で「私の平安("Ruh")を」というところから、一旦嵐の絶え間が見えますが、それもつかの間で再び嵐の音楽に突入します。
この嵐の中で、神は(慰めのうちに)「私はあなたの盾であり、救い主である」と宣言します。これは、嵐の中に神の声が聞こえると解釈するのか、あるいはアルノンクールのように嵐をトーンダウンして表現すべきなのかと考えさせますが、 もっと単純に、ここでバッハは歌詞の都合よりも音楽の都合を優先させたと考えれば良いのでしょう。

そして第7曲バスのレシタティーヴォに至って、魂はやっと落ち着きをもって「正しい時」("rechter Zeit")を待ち望み、苦しみを耐え忍ぶ信仰を取り戻します。この日の礼拝で読まれる聖書の個所(マタイ2章:13-23=イエスのエジプト逃避行)が語られ、 キリストの幼時の苦難を偲びつつ、自らを慰めることが勧められます。イエスも「避難民」(Flüchtling)となったと語る部分での「逃れる」音画描写、そして最後はアリオーソとなって「誰であれ、キリストとともに耐え忍ぶ者は、彼によって天国が授けられる」と締めくくられます。

第8曲アルトのアリアは優雅なメヌエットのリズムで喜びを歌いますが、それも二段階になっています。

私がその生涯を 
十字架と苦しみの下に送らねばならないとしても
それは天において終わり 
そこにはただ歓喜があるばかり
イエスご自身が私の苦難を取り去り 
至福の喜び永遠の歓喜を与えてくださる

上の歌詞において、4行目まではゆったりとしたテンポで控えめに、そして5行目からは一気にテンポを上げて、"Freuden"(歓喜)のメリスマに突入していくのです。

こうして最後のコラールは揺るぎないイエスへの信仰を表すものとなります。なお、このように3節まで(もとの讃美歌では16節から18節まで)歌われるのは、バッハのカンタータにおいては唯一の例だそうです。


▼録音は5種類の全集のみで、3つのコラールだけはマット指揮ノルディック室内合唱団の録音があります。

指揮者		録音年	レーベル	アルト		
Rilling		1978	Hänssler	女声
Harnoncourt	1985	TELDEC		少年
Koopman		1998	ERATO 		カウンターテナー
Leusink		1999	Brilliant	カウンターテナー
Suzuki		2001	BIS		カウンターテナー
Matt		1999	Brilliant
		

▼5つの録音を聞いてみて、むだだったと思うようなものは一つもありませんでした。
リリングはこの作品の場合唯一の!モダン楽器による録音です。時に通奏低音の響きが古くさい点はありますが、この作品のメッセージをごく自然に伝える演奏と思います。テノールのクラウスをはじめとして、独唱者たちも堅実です。
アルノンクールも、コラールの素直さ、メヌエットのリズムの典雅さ、少年アルトも含めて独唱者たち、特にテノールのエクィルツの深みなど、聞くべき点の多い演奏です。ただし、肝心の嵐のアリアでは弦楽器がもう一つさえない様子です。
▼コープマンの演奏の美点は、この作品において際だっています。特にテノールのプレガルディエンはエクィルツの残念(合奏部が十全でなかった)を十分以上に晴らすものです。(レシタティーヴォを支える不協和音の厳しさも印象に残りました。) また、この作品ではバスは比較的淡々とした部分を割り当てられていますが、メルテンスはそれに反発するかのような積極的な表現を見せています。少々やりすぎの感もありますが、印象には残ります。 特にアリアの部分で、リュートのつま弾きをバックに表情豊かに歌うところは、神様の声としてはやや似合いませんが、歌としては一番聞かせるものでした。
鈴木の演奏は、コープマンを淡泊にしたようなものです。全体に精緻な仕上がりで、誇張なくそのまま演奏したという感じです。また、通奏低音にチェンバロを採用しているのは、リリングとこれだけです。バスのコーイは端正で、声のコントロールは完璧ですが、それだけ。テュルクはプレガルディエンほどの厳しさはありませんが、独特の叙情性があり、嵐のアリアはどちらが優れているとも言えないほどでした。
▼最後に、レーシンクの演奏は時々無視したりしていますが、この作品はもともと合唱の負担が軽いためもあって、合奏など少々粗いところもありますが、特に破綻なく仕上げています。もしこの演奏だけを聞いたとしても、作品の良さは十分に伝わるでしょう。レシタティーヴォでの不協和音の厳しさはこれが一番強烈でした。

(2005年1月7日)

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2004-04-07更新
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